カルポフの時代

フィッシャーはスパスキー以降持病が悪化し一切ささなくなった。みんな自分を利用しようとする。といいながら中学を卒業してないフィッシャーは反ユダヤ主義陰謀論に没頭する。

1972年フィッシャーがチャンピオンになった年一人のソ連のスターが誕生する、アナトリーカルポフ。ボトヴィニクスクールの初期の生徒で(12歳の頃に入る)スパスキーの記録を抜いてソ連の最年少マスターとなり、ソ連ではスパスキー以来ジュニアチャンピオンを輩出してなかったが久しぶりのソ連産のジュニアチャンピオンとなる。1973年のインターゾナルではコルチノイに続く二位となった。ところが問題が発生、その頃の風潮を間に受けコルチノイがソ連を抜けスイスに亡命してしまう。これによりペトロシアンがコルチノイを強く非難する。キャンディデイト戦では準決勝カルポフがスパスキーと対戦、カルポフに一回しか勝てずに終わる、スパスキーとカルポフの対戦結果の差は元世界チャンピオン同士では一番歪で、スパスキーがなぜカルポフに勝てないか?と尋ねられたところ「あいつは何考えてるかわからない」と言った。コルチノイはペトロシアンと準決勝で対戦して勝利、(実は1971年のキャンディデイトマッチの準決勝もコルチノイvsペトロシアンでペトロシアンがこの時は勝った。

フィッシャーは世界チャンピオン戦のルールに納得いかずに王座を放棄事実上の世界チャンピオン決定戦はコルチノイ対カルポフ。この対戦は一番奇妙な世界チャンピオン戦と言われている。コルチノイ側がカルポフに送られてくるヨーグルトの色はカルポフの暗号だとか、お互いボードの下で蹴りあっていた。コルチノイはカルポフの髪が汚く魚みたいだと批判したりしてた(実はカルポフは誰かに負けるまで風呂に入らないタイプの人間だった)結果12 1/2 vs 11 1/2でカルポフ側の勝利。当時二番目に若いチャンピオンが誕生した(タルの次)コルチノイが敗北してから50歳なのに各地のトーナメントに積極的に参加する。次のキャンディデイトマッチではスパスキーとペトロシアンを破ってカルポフとの挑戦、しかし16 1/2vs 15 1/2で勝てずに終わる。アリョーヒン以降のチャンピオンは二回連続でタイトルを保持することは無かったのでこれがカルポフが塗り替えた記録の一つでもある。おじいさんなのに止まることを知らないコルチノイは1981も挑戦者になるがソビエトにいる息子と妻を人質に取られ圧倒的敗北で負ける。虐殺とも揄えられる結果はカルポフを一気に確立させた。スパスキーはなぜコルチノイがカルポフに勝てないか語ると「コルチノイは鋼の精神を持っていて、闘争心が人一倍強く、計算力がフィッシャー以外の誰よりも高く、誰よりも粘り強い防御力を持ち、恐らくカパブランカに勝るエンドゲーム力があって、オープニングの知識はだれよりも広く(特にフレンチディフェンス)、反撃は歴代のだれよりもうまかった」と「じゃあなんでカルポフに勝てないんですか?」と記者は聞くも「才能がなかったんだよ」と言われた。でもコルチノイは止まらなく1990年代の当時最高のプレイヤーが集まったトーナメントで優勝したり2011年にカルアナやカールセンにかったりと老いてもなおその実力は圧倒的だったけど2016年に無くなってしまった。

カルポフの時代にはボトヴィニクにスミスロフやケレス、ブロンシュタインがいたりフィッシャーにタル、ペトロシアン、スパスキーみたいな強力なライバルがいたようなプレイヤーはあまりいなかった(タルとポルガイエフスキー、ポルティッシュなどが引き続き頑張ってた)(ポルガイエフスキーはコルチノイと似ててタルに対して圧倒的な成績を誇る)(タルはコルチノイに全然勝てなかった)カルポフに立ち向かえるのはラルゼン(初期にはカルポフにかなりいいスコアを得たけど後期にはやっぱり圧倒される)タル(カルポフのトレーナー、一回しか負けてない(でも勝ったことはない)カルポフへの敗北率でいうとかなり低い)コルチノイ(初期にはかなり互角に戦ったけど後期には全然勝てない)くらいしかいなくなっていた。しかしそれでもカルポフが生まれたその年には一応たくさんの強いプレイヤーが生まれて、ティマン、オランダのチェスプレイヤー、最高世界ランク2位でカスパロフの時代にはずっと3位だった。やウルフアンダーソン、最高世界ランク4位でジュニア世界チャンピオン決定戦でカルポフに負けて、棋風もだだ被りでかなりカルポフに負けてばっかりだけどそれでもカルポフの世界チャンピオンとしての無敗記録を破った張本人でそのゲームで無謀なビショップに対してルークを捨てる意味不明なゲームはエクスチェンジサクリファイスの名ゲームとして知られてる。

カルポフが丁度コルチノイに飽きて来たころ(1978年)に衝撃の展開が起こる。

同じくボトヴィニクの門下生であるマスターでもなんでもない15歳のカスパロフが初めてペトロシアンから名指しで(同じアルメニア人なので)ユーゴスラビアの国際的なチェスの試合に呼ばれる。その時ペトロシアンの妻は「ペトロシアンだって1953年に16歳のスパスキーと国際的な試合で戦ったから大丈夫」と甘い言葉につられてアンダーソンやペトロシアンが参加する試合に出てみたらカスパロフが無敗で優勝し無名のプレイヤーから一気に世界15位に飛躍してフィッシャーの再来を世間に予感させる。1980年にはオリンピックの選手に選ばれあまり振るわないペトロシアンやカルボフを抑えて一番得点を取りソ連を優勝に導いたり、スミスロフとの試合に勝ったりした。だけど1981年にはペトロシアンとスパスキーの直接対決。カスパロフは持ち前のチェスへの理解の深さから二人に敗北の危機にもたらすがいずれもカスパロフの凡ミスにより勝利を逃す。この時カスパロフは17歳。カスパロフは後にこの敗北がなければ私はこのまで強くなってないだろうと語っている。それからインターゾナルにフィッシャー以来最も若い年齢で参加したり、戦果を挙げる。1981年には既にソビエトチャンピオン決定戦で優勝してレートも世界二位となる。キャンディデイト戦では2戦目にコルチノイに当たり1回戦目で負けるがその後勝利して世界一のレートを手に入れる。最終戦の相手は意外にもスミスロフ、多くの人がカスパロフが勝つと思っていた(実際そうだった)。

カルポフvsカスパロフは先に6勝した方が勝ちのデスマッチとなった。世界チャンピオン歴10のカルポフは21の若手に31戦までに五勝して一度も負けなかった。カスパロフは五度目の敗北27戦目からいつものダイナミックさを捨てて慎重にプレイしていくことにした。32戦目にカスパロフ初勝利。33戦目から46戦目まで全て引き分けという熾烈な戦い。47戦目、48戦目ともに勝利。あまりにも泥沼っぷりに翌年改めてマッチの形式を変えて戦歴を消去して再度行うことに。