フィッシャー

ロバートジェームズフィッシャーはアメリカのロシア系のユダヤ人。母親が共産主義者で警察にマークされてたら父親はロシアの生物物理学者らしいけどフィッシャーはあんまり知らないらしい。他の説にマンハッタンプロジェクト参加のクロアチア生まれハンガリー系のユダヤ人物理学者がフィッシャーの父親とも言われてるらしい、フィッシャーはチェスは強かった、フィッシャー13歳でインターナショナルマスター相当の相手に華麗なクイーンサクリファイスを仕掛けて勝利のちに世紀の一局と呼ばれるゲームになる、14歳でインターナショナルマスター、同じ歳に最年少アメリカチャンピオンとなる。15歳で当時最年少GM、17歳で最年少キャンディデイトとなるが当時全盛期のタルに手も足も出ずに敗北。まあここまでは順調にことが進んでいた。1962年初めて世界チャンピオンのボトヴニクとオリンピックで対戦する。オープニングではほぼ互角だったけどフィッシャーが予期せぬ一手を指して優位に持ち込む。しかしエンドゲームに近づくにつれて状況が難しくなり封じ手を込めて一旦休戦、食事中にはボトヴィニクが大声でNichia(引き分け)だと大声で話してるのをフィッシャーを苛立たせる。次の手でゲレルによって徹夜で見つかった手で防がれて見事引き分け。フィッシャーは泣きながら部屋から出て言った。ボトヴィニクは最後この試合のことを世界チャンピオンになるには才能だけが必要ではない。人間性も必要だ。フィッシャーにはそれが決定的にかけてると。腹いせにフィッシャーは偉大なチェスプレイヤー10人にボトヴィニクを選ばなかった。しかも1962年のインターゾナルで一位をとるけがキャンディデイトトーナメントペトロシアンに負けて二位。その理由をロシアの陰謀!わざと身内のロシア(ケレスとゲレル)では簡単に引き分けを繰り返してコルチノイに負けさせるように八百長させたんだ!このルールは腐ってると言ってアメリカ国内以外のトーナメントには参加しなくなった。のちにコルチノイは「ペトロシアンが身内で八百長をしたのは事実だけど自分は参加してない」と言っている。これでキャンディデイトが見直され総当たり先から勝ち残り式に変わった。よく年フィッシャーはアメリカのチャンピオン戦で全ての試合に勝った、こんなことをするプレイヤーは二度といないけど同じことしたプレイヤーのためにアメリカはフィッシャー賞(アメリカチャンピオン戦で全部勝ったプレイヤーに与えられる称号)を用意している。レシェフスキー(元アメリカチャンピオン)はフィッシャーの事を嫌ってた。レシェフスキーは元神童で8歳の頃大勢の大人相手に大人数と戦ったので有名。一時期はアメリカの一番ボードに立ちボトヴィニクにさえも優位を保つほどの実力だった。(1955 USAvsUSSR)

でも世界チャンピオン戦には政治的な理由で参加できなかったり、フィッシャーと同じ理由で妨害されたりしてた。レシェフスキーは1958年に7回アメリカチャンピオンの自分を差し置いて中学生に優勝されたのが悔しかった模様、1960年のチェスオリンピアードではフィッシャーが20位なら私は19位で十分だと言ったりレシェフスキーが16回勝負を1961年に申し込んだりした(識者はレシェフスキーに分があると言ったけどスケジュールの都合で引き分けに終わり)。後はフィッシャーがボード一で参加するなら僕はアメリカのチームに入らないo(`ω´ )oなんて駄々捏ねたりしたことが何度もあった。とはいうもののフィッシャーはレシェフスキーのことをなんやかんや尊敬してたらしくフィッシャー曰く最も偉大なプレイヤーは「モーフィ、シュタイニッツ、タラッシュ、カパブランカ、アリョーヒン、スパスキー、タル、レシェフスキー」らしい他にも「レシェフスキーがその弱点であるオープニングを直したら世界チャンピオンになれたかどうかは誰にもわからないだろう」と言っている。

1967年フィッシャーはインターゾナルに復帰したけどレシェフスキー戦に50分以上遅刻したためレシェフスキーは激怒、フィッシャーの参加を取り消せとね、結局フィッシャーが勝ったんだけど3回フィッシャーがゲームを棄権したからフィッシャーが削除された。(レシェフスキーはキャンディデイトになるんだけどね) 

1970年にフィッシャーはレーティング一位だったんだけど(フィッシャー>スパスキー>コルチノイ)ソビエト連邦vsその他全世界戦でデンマーク出身、当時フィッシャーとソ連を除いて世界で一番強いと言われた(世界6位くらい)ラーゼンに一番ボードを譲った(ソ連の一番はスパスキー)。この試合でラーゼンはスパスキーに対してあまりにも独創的なオープニング(1b3(ラーゼンオープニング))を使ったのでスパスキーがそれに漬け込みルークを2個捨てる離れ業で勝利、スパスキーにとっての輝かしい勝利となる。(ラーゼンのオープニングは独創的すぎてたまに失敗するけどその哲学は今のチャンピオンカールセンに受け継がれてる)一方フィッシャーは二番ボードのペトロシアンと対戦。ペトロシアンを難なく粉砕する。レシェフスキーは六番でスミスロフと勝負。互角の勝負を繰り広げた(レシェフスキーとスミスロフは好敵手のようなもので1945年のアメリカ対ソビエト連邦戦ではレシェフスキーとスミスロフ二番ボード同士対決、この時はレシェフスキーは完全敗北。チューリッヒ1953年でもレシェフスキーがスミスロフの二番だった。1991年、80歳のレシェフスキーが70歳のスミスロフがロシアの中央チェスクラブで勝負する。結果は2 2のドローなしの引き分けでレシェフスキーが冗談でもっとチェスをしたいなぁといい、続けて二人でチェスの博物館を回った後「この日初めて私の人生は無駄では無かったと悟ったよ」と言い残しふたりは別れを告げる、10ヶ月後レシェフスキーはこの世を去ってしまう...

アメリカの大統領の命令でやっとフィッシャーが本気でチェスをやりだす。1971年のキャンディデイトマッチに一位で通過、初戦はチューリッヒ1953の参加者で熟年のピアニストタイマノフ、フィッシャーがなんと6戦中6戦勝利!!これがきっかけでタイマノフはソビエト政府から悲惨な扱いを受けた。2戦目はレート4位のラーゼン(フィッシャー>スパスキー>コルチノイ>ラーゼン>ペトロシアン)、これも6戦中6回勝利!!決勝戦の相手は因縁のペトロシアン9回勝負で2戦目になんと敗北。三回戦から5回戦まで引き分けで以外と手こずったけどそっから全部はストレート勝ち。

世界チャンピオン戦には普通のチェスプレイヤーはたくさんの本を持って行くのにも関わらずスパスキーの過去の試合のことを書いてあるノートを一冊持って行っただけだった。対戦場所はアイルランドアイルランドで英語を話せるチェスプレイヤーの家に行った時アイルランド語でその娘に話しかけられたフィッシャー、一旦ホテルに帰って次の日にまた訪問した時その言われたアイルランド語を覚えていたらしい(フィッシャーには瞬間記憶能力がある)。

スパスキーとの一回戦フィッシャーはドローっぽいポジションでビショップを落としてしまって敗北、このミスは多くのチェスファンに最低のミスと言われてるけど実はそうじゃなくて深く考えるとビショップを救出する手もある手だったんだけど、その手がもっと深く考えるとあの状況で成り立たなかっただけの話でそう単純なミスではなかったみたい(実際カールセンvsアナンドのチャンピオン戦ではカールセンがその救出する手を成功しててポーン得になった(その試合は結局引き分けで終わった)一説には周りに見られて深く考えれなかったからだと言われる。二回戦目はフィッシャー棄権によるため敗北。メディアがいなくならない限りやらないといいながら。三回戦目はスパスキーがフィッシャーの提案を飲み別室で試合をすることに。三回戦はフィッシャーがスパスキーにキャリア初の勝利、6戦目はフィッシャーが今まで一回しか刺したことがないオープニング(イングリッシュオープニング)を披露し華麗に勝利、戦いの後にスパスキーが立ち上がって拍手したことで有名。その後スパスキーは一戦しか勝てず結果12 1/2vs 8 1/2でフィッシャーの勝利。

ソ連政府はフィッシャーの想定外の勝利にパニックに、

フィッシャーのスタイルは個人的には異質だったと思う。というのはソ連のプレイヤー(ボトヴィニク率いるロシアンスクール)はなるべく勝っているなら駒を交換せずにそのままチェックメイトに持っていく引き伸ばしの手法をよく使ったけど(複雑だけど早い)フィッシャーは逆に勝ってる状況で交換してより明らかなアドバンテージを求めた。(簡単だけどすぐにはチェックメイトまでいかない方法)ボトヴィニクが足し算のチェス(2対1で勝ってるなら14対6までの差を広げるとしたらフィッシャーは10対6で勝ってる状況を5対1までにするようなチェス)似たようなことでアドバンテージの転換が得意であるアドバンテージを持ってたらそのアドバンテージを平気で捨てるがその過程で別の強いアドバンテージを得ることが得意だった(あまりアドバンテージを進んで捨てれるプレイヤーなんてなかなかいないと思うけどそれを捨てれるのがフィッシャーの強みだった)