ボトヴィニクの時代

ボトヴィニクはこれからこれまでロシアを支配するロシアンスクールの設立者、チャンピオンにしては遅い12歳でチェスを始める、歴代最高の戦略家と言われてオープニングの準備も他のプレイヤー比較ならないほど徹底してて辞書と言われた、チェスコンピューターの理論にも貢献してソビエト人工知能にも協力した。おそらく最後のなんでもマン(ここから先のプレイヤーはチェスだけの人間になっていく)科学者故にそのチェスは極めてドグマ的、シュタイニッツと似てる。それに挑戦するのはブロンシュタイン(ソ連)、ブロンシュタインは独創的な攻撃をしかける創造タイプ、次の世代のアタッカーに影響を与えていったが引き分け防衛。ボトヴィニクの方がエンドゲームの知識が上で引き分けになるような試合もボトヴィニクが勝利に持ち込んだり逆にブロンシュタインが勝つ試合を引き分けに持ち込んだ。ただブロンシュタイン自身はボトヴィニクと戦えた事自体に感激をして別に結果はどうでもよかった。若いスミスロフ、スミスロフはブランシュタインが書いた有名な本にもなる、伝説的なトーナメントチューリッヒ1953で優勝して(スミスロフ>ブロンシュタイン>レシェフスキー>ケレス>ぺトロシアン>その下10人くらい)挑戦者となる、スミスロフはオペラ歌手で調和した棋風を持つ、程よくバランスが取れていてピースが一番いいところに常に置いてある、第二のカパブランカと呼ばれてエンドゲームに特に優れてSilmanの選ぶ5人の最高のエンドゲームプレイヤーの一人。1回目の挑戦ではなんと引き分けに持ち込むけどルールにより引き分けならチャンピオンの座は変わらないことになりボトヴィニクの勝利。

続く1956年の挑戦者戦にスミスロフは勝って(スミスロフ>ケレス>サボー(ハンガリー)>スパスキー(ソ連)>ペトロシアン>ブロンシュタイン)もう一度ボトヴィニクに挑戦した。すると今回はボトヴィニクに勝利した!でもこっからがボトヴィニクの真の恐ろしさが始まる。ボトヴィニクの強さはボードの上での勝利でなくボードの外から相手の特徴を観察して入念すぎる準備をすること、リターンマッチでは簡単にスミスロフに勝利スミスロフの王座はたったの一年たらずで終わる...1958年、事件が起こる、最強棋士達が集う1958 USSR王者決定戦で新人タルが優勝してしまう...この時スパスキーと繰り広げられた激戦は有名(タル>ペトロシアン>ブロンシュタイン>アヴェルバッハ>スパスキー>後12人くらい)タルは急に現れた新人でチューリッヒ1953に参加したアヴェルバッハを倒したことによりソビエト政府から特例でGMの称号を与えられたイレギュラー。ブロンシュタイン(魔法使い)のフォロワーで準備もしてないで無茶なサクリファイスを無理やりすることに定評があることから魔術師とよばれる、防御が十分に強かったら防げない攻撃ではないけど実践であるからミスはするしタルの計算力のの高さ故並みの防御力では無茶なサクリファイスをされたはずが逆にタルが駒得をいつの間にかして簡単なエンドゲームで負けるという、心理的なプレイヤーでいつ来るかわからない危険な攻撃で恐れられていた。たまに間違ってるから怖い。たま間違ってるからスミスロフには虚偽と批判されたことがあったけど、このタルがチェスに新しい生命を与えていく、代表選手権では(タル>ケレス>ペトロシアン>スミスロフ>フィッシャー(アメリカ)で余裕の勝利)ボトヴィニクにも激戦の末勝利(1960)最年少世界チャンピオンとなる

無双を極めたタルにも弱点があった、タルは生まれつき指が三本しかなく病弱だった。それ故強さにムラがあった、しかと50歳のボトヴィニクは誰も気がつかない致命的なタルの攻撃の弱点を見つけた。ボトヴィニク運営はタルの健康のことも考えず満身創痍のタルと戦い勝利、歴代最短のチャンピオンだった。

次のボトヴィニクの挑戦者はペトロシアン、あまりいいところの出ではないけどニムゾヴィッチの本とサクリファイスの本を読み続け矛盾した二つの思想が調和されたプレイヤー、特徴としては基本的に絶対に攻撃しない、何があっても攻撃せず相手の弱点を...ただ囲う...それだけ...ニムゾヴィッチ曰く脅威は実行より強い、それで相手が弱ったらサクリファイスで一網打尽、半端ない忍耐力で相手が何もできなくなるまで待つ大蛇の異名を持つプレイヤー、ボトヴィニクは戦略の理解の差を感じチェスを引退、

ペトロシアンは地味に最年少GMだったんだけどスパスキーがその最年少記録を塗り替え世界チャンピオンの座を狙う、スパスキーは攻めもできて守りもできる、クラムニク曰く初めての本物の普遍的なプレイヤー、だけどスパスキーは止まらない殺戮兵器の側面があってなかなか始まらないけど時間が来れば一気に相手の王を狙って塞がない巨大な調和された攻撃で相手を倒すプレイヤー、タルは早すぎる攻撃、ペトロシアンは遅すぎる攻撃、スパスキーはその遅い早いを正確に見切れる能力がある。スパスキーはジュニアの世界チャンピオンになり若い頃から将来を約束されていたし1956年の世界チャンピオン挑戦者マッチにも参加したがそこから先は奮わず1966年までキャンディデイトになれなかった。キャンディデイト戦ではその得意な普遍的な戦法で一流の相手にそれぞれの弱点に合わせて戦った。最終戦は復帰したタル、その頃タルはレート一位、二つの無敗記録の持ち主、当時のペトロシアンの連続無敗記録を二回も破り(今でも一番の記録を持ってる。二番目は確かクラムニク)驚くほど強かった。でもスパスキーは1958年の雪辱を果たし見事挑戦者になる。スパスキーは1966年にペトロシアンに挑戦するが敗北、その後山にこもり三年間特訓することに、ボトヴィニクはスパスキーに「ペトロシアンの手はどのくらい読める?」と聞かれた時に「常には読めない」と答えた。1969年も運良くコルチノイを倒しペトロシアンに挑戦者する。スミスロフは結果について「自分がボトヴィニクに一度負けた後に勝ったようにスパスキーはペトロシアンに勝つかもしれない。ロシアの諺:復習は理解の母」激戦の末スパスキー勝利、スパスキーは勝った後に言った「ペトロシアンの手は全て見えた」でもこの頃決してスパスキーは最強であったわけではない、「恐らく地上で一番強いのは私がフィッシャーだろう」