カスパロフ

1985年の再戦は熾烈を極めた。特筆すべき点なのは多くの勝利はカスパロフが自身の圧倒的な力で粉砕するスタイルではなくボード上のすべての駒を支配するカルポフのスタイルで勝ってたこと。カスパロフ16戦目はポーンを捨てナイトですべての駒を支配した(後にGarry Gambitと呼ばれるがすぐに反駁手が見つかってしまう)19戦目ではボトヴィニクの「カパブランカのように刺せ」というアドバイスを受けてどちらかと言えば静かな勝負に出た。24戦目、最終試合ではカスパロフは一点リードしていてカルポフは絶対に勝たないといけなかった(勝てば引き分け防衛)カスパロフが得意なシシリアンの勝負にカルポフは出た。カルポフは中盤、有利な攻撃のポジションになったがタルのように激しく刺せないで静かに、徐々にプレッシャーを与えようとしてカスパロフに逆転される。ドローにできる局面をカルポフは拒否しその末カスパロフに敗亡。しかし、それによってカルポフの第二の生が始まる。カルポフはこれまでe4しかささなかったがd4を指すようになる(一般的にe4は激しい勝負になってd4は穏やかな勝負になると言われてる)カルポフはザイツェフやゲラーなどの有名理論家にオープニングを作ってもらってそのあとミドルゲームとエンドゲームに勝とうとするやり方をする。ザイツェフの力は強力でカスパロフを苦しめることになる。1985から1990までは一番二番は変わらず3番にユスポフがきたりティマンがきたりLjubojevicがきたりすることになる。カルポフとカスパロフの対決はいずれもほぼ一点差でおわることになる。トーナメントではほぼカスパロフとカルポフはドローでカスパロフが一位、カルポフが二位となる。だが1991年は例外だった。ウクライナの新生、イヴァンチュクが二人が参加する大きいトーナメントで両方を倒して一位になってしまう。カスパロフがまるで子供のように、イヴァンチュクに粉砕される姿は誰もが新しいチャンピオンの到来を予期した。同時期にインターゾナルではイヴァンチュクと同世代のベラルーシ出身ゲルファンドが一位で通過。ゲルファンドは卓越した戦略家でカスパロフと同じナイドロフシシリアンとキングスインディアンのエキスパート。あまり脚光をあびることはないが2012年には世界チャンピオンへの挑戦者となる。1993年にはカルポフは世界チャンピオンの挑戦者になることはないが、その挑戦者とカスパロフがFIDEから離脱することによってチャンピオンに戻ることになった。離脱した二人、カスパロフとショート

カルポフの時代

フィッシャーはスパスキー以降持病が悪化し一切ささなくなった。みんな自分を利用しようとする。といいながら中学を卒業してないフィッシャーは反ユダヤ主義陰謀論に没頭する。

1972年フィッシャーがチャンピオンになった年一人のソ連のスターが誕生する、アナトリーカルポフ。ボトヴィニクスクールの初期の生徒で(12歳の頃に入る)スパスキーの記録を抜いてソ連の最年少マスターとなり、ソ連ではスパスキー以来ジュニアチャンピオンを輩出してなかったが久しぶりのソ連産のジュニアチャンピオンとなる。1973年のインターゾナルではコルチノイに続く二位となった。ところが問題が発生、その頃の風潮を間に受けコルチノイがソ連を抜けスイスに亡命してしまう。これによりペトロシアンがコルチノイを強く非難する。キャンディデイト戦では準決勝カルポフがスパスキーと対戦、カルポフに一回しか勝てずに終わる、スパスキーとカルポフの対戦結果の差は元世界チャンピオン同士では一番歪で、スパスキーがなぜカルポフに勝てないか?と尋ねられたところ「あいつは何考えてるかわからない」と言った。コルチノイはペトロシアンと準決勝で対戦して勝利、(実は1971年のキャンディデイトマッチの準決勝もコルチノイvsペトロシアンでペトロシアンがこの時は勝った。

フィッシャーは世界チャンピオン戦のルールに納得いかずに王座を放棄事実上の世界チャンピオン決定戦はコルチノイ対カルポフ。この対戦は一番奇妙な世界チャンピオン戦と言われている。コルチノイ側がカルポフに送られてくるヨーグルトの色はカルポフの暗号だとか、お互いボードの下で蹴りあっていた。コルチノイはカルポフの髪が汚く魚みたいだと批判したりしてた(実はカルポフは誰かに負けるまで風呂に入らないタイプの人間だった)結果12 1/2 vs 11 1/2でカルポフ側の勝利。当時二番目に若いチャンピオンが誕生した(タルの次)コルチノイが敗北してから50歳なのに各地のトーナメントに積極的に参加する。次のキャンディデイトマッチではスパスキーとペトロシアンを破ってカルポフとの挑戦、しかし16 1/2vs 15 1/2で勝てずに終わる。アリョーヒン以降のチャンピオンは二回連続でタイトルを保持することは無かったのでこれがカルポフが塗り替えた記録の一つでもある。おじいさんなのに止まることを知らないコルチノイは1981も挑戦者になるがソビエトにいる息子と妻を人質に取られ圧倒的敗北で負ける。虐殺とも揄えられる結果はカルポフを一気に確立させた。スパスキーはなぜコルチノイがカルポフに勝てないか語ると「コルチノイは鋼の精神を持っていて、闘争心が人一倍強く、計算力がフィッシャー以外の誰よりも高く、誰よりも粘り強い防御力を持ち、恐らくカパブランカに勝るエンドゲーム力があって、オープニングの知識はだれよりも広く(特にフレンチディフェンス)、反撃は歴代のだれよりもうまかった」と「じゃあなんでカルポフに勝てないんですか?」と記者は聞くも「才能がなかったんだよ」と言われた。でもコルチノイは止まらなく1990年代の当時最高のプレイヤーが集まったトーナメントで優勝したり2011年にカルアナやカールセンにかったりと老いてもなおその実力は圧倒的だったけど2016年に無くなってしまった。

カルポフの時代にはボトヴィニクにスミスロフやケレス、ブロンシュタインがいたりフィッシャーにタル、ペトロシアン、スパスキーみたいな強力なライバルがいたようなプレイヤーはあまりいなかった(タルとポルガイエフスキー、ポルティッシュなどが引き続き頑張ってた)(ポルガイエフスキーはコルチノイと似ててタルに対して圧倒的な成績を誇る)(タルはコルチノイに全然勝てなかった)カルポフに立ち向かえるのはラルゼン(初期にはカルポフにかなりいいスコアを得たけど後期にはやっぱり圧倒される)タル(カルポフのトレーナー、一回しか負けてない(でも勝ったことはない)カルポフへの敗北率でいうとかなり低い)コルチノイ(初期にはかなり互角に戦ったけど後期には全然勝てない)くらいしかいなくなっていた。しかしそれでもカルポフが生まれたその年には一応たくさんの強いプレイヤーが生まれて、ティマン、オランダのチェスプレイヤー、最高世界ランク2位でカスパロフの時代にはずっと3位だった。やウルフアンダーソン、最高世界ランク4位でジュニア世界チャンピオン決定戦でカルポフに負けて、棋風もだだ被りでかなりカルポフに負けてばっかりだけどそれでもカルポフの世界チャンピオンとしての無敗記録を破った張本人でそのゲームで無謀なビショップに対してルークを捨てる意味不明なゲームはエクスチェンジサクリファイスの名ゲームとして知られてる。

カルポフが丁度コルチノイに飽きて来たころ(1978年)に衝撃の展開が起こる。

同じくボトヴィニクの門下生であるマスターでもなんでもない15歳のカスパロフが初めてペトロシアンから名指しで(同じアルメニア人なので)ユーゴスラビアの国際的なチェスの試合に呼ばれる。その時ペトロシアンの妻は「ペトロシアンだって1953年に16歳のスパスキーと国際的な試合で戦ったから大丈夫」と甘い言葉につられてアンダーソンやペトロシアンが参加する試合に出てみたらカスパロフが無敗で優勝し無名のプレイヤーから一気に世界15位に飛躍してフィッシャーの再来を世間に予感させる。1980年にはオリンピックの選手に選ばれあまり振るわないペトロシアンやカルボフを抑えて一番得点を取りソ連を優勝に導いたり、スミスロフとの試合に勝ったりした。だけど1981年にはペトロシアンとスパスキーの直接対決。カスパロフは持ち前のチェスへの理解の深さから二人に敗北の危機にもたらすがいずれもカスパロフの凡ミスにより勝利を逃す。この時カスパロフは17歳。カスパロフは後にこの敗北がなければ私はこのまで強くなってないだろうと語っている。それからインターゾナルにフィッシャー以来最も若い年齢で参加したり、戦果を挙げる。1981年には既にソビエトチャンピオン決定戦で優勝してレートも世界二位となる。キャンディデイト戦では2戦目にコルチノイに当たり1回戦目で負けるがその後勝利して世界一のレートを手に入れる。最終戦の相手は意外にもスミスロフ、多くの人がカスパロフが勝つと思っていた(実際そうだった)。

カルポフvsカスパロフは先に6勝した方が勝ちのデスマッチとなった。世界チャンピオン歴10のカルポフは21の若手に31戦までに五勝して一度も負けなかった。カスパロフは五度目の敗北27戦目からいつものダイナミックさを捨てて慎重にプレイしていくことにした。32戦目にカスパロフ初勝利。33戦目から46戦目まで全て引き分けという熾烈な戦い。47戦目、48戦目ともに勝利。あまりにも泥沼っぷりに翌年改めてマッチの形式を変えて戦歴を消去して再度行うことに。

フィッシャー

ロバートジェームズフィッシャーはアメリカのロシア系のユダヤ人。母親が共産主義者で警察にマークされてたら父親はロシアの生物物理学者らしいけどフィッシャーはあんまり知らないらしい。他の説にマンハッタンプロジェクト参加のクロアチア生まれハンガリー系のユダヤ人物理学者がフィッシャーの父親とも言われてるらしい、フィッシャーはチェスは強かった、フィッシャー13歳でインターナショナルマスター相当の相手に華麗なクイーンサクリファイスを仕掛けて勝利のちに世紀の一局と呼ばれるゲームになる、14歳でインターナショナルマスター、同じ歳に最年少アメリカチャンピオンとなる。15歳で当時最年少GM、17歳で最年少キャンディデイトとなるが当時全盛期のタルに手も足も出ずに敗北。まあここまでは順調にことが進んでいた。1962年初めて世界チャンピオンのボトヴニクとオリンピックで対戦する。オープニングではほぼ互角だったけどフィッシャーが予期せぬ一手を指して優位に持ち込む。しかしエンドゲームに近づくにつれて状況が難しくなり封じ手を込めて一旦休戦、食事中にはボトヴィニクが大声でNichia(引き分け)だと大声で話してるのをフィッシャーを苛立たせる。次の手でゲレルによって徹夜で見つかった手で防がれて見事引き分け。フィッシャーは泣きながら部屋から出て言った。ボトヴィニクは最後この試合のことを世界チャンピオンになるには才能だけが必要ではない。人間性も必要だ。フィッシャーにはそれが決定的にかけてると。腹いせにフィッシャーは偉大なチェスプレイヤー10人にボトヴィニクを選ばなかった。しかも1962年のインターゾナルで一位をとるけがキャンディデイトトーナメントペトロシアンに負けて二位。その理由をロシアの陰謀!わざと身内のロシア(ケレスとゲレル)では簡単に引き分けを繰り返してコルチノイに負けさせるように八百長させたんだ!このルールは腐ってると言ってアメリカ国内以外のトーナメントには参加しなくなった。のちにコルチノイは「ペトロシアンが身内で八百長をしたのは事実だけど自分は参加してない」と言っている。これでキャンディデイトが見直され総当たり先から勝ち残り式に変わった。よく年フィッシャーはアメリカのチャンピオン戦で全ての試合に勝った、こんなことをするプレイヤーは二度といないけど同じことしたプレイヤーのためにアメリカはフィッシャー賞(アメリカチャンピオン戦で全部勝ったプレイヤーに与えられる称号)を用意している。レシェフスキー(元アメリカチャンピオン)はフィッシャーの事を嫌ってた。レシェフスキーは元神童で8歳の頃大勢の大人相手に大人数と戦ったので有名。一時期はアメリカの一番ボードに立ちボトヴィニクにさえも優位を保つほどの実力だった。(1955 USAvsUSSR)

でも世界チャンピオン戦には政治的な理由で参加できなかったり、フィッシャーと同じ理由で妨害されたりしてた。レシェフスキーは1958年に7回アメリカチャンピオンの自分を差し置いて中学生に優勝されたのが悔しかった模様、1960年のチェスオリンピアードではフィッシャーが20位なら私は19位で十分だと言ったりレシェフスキーが16回勝負を1961年に申し込んだりした(識者はレシェフスキーに分があると言ったけどスケジュールの都合で引き分けに終わり)。後はフィッシャーがボード一で参加するなら僕はアメリカのチームに入らないo(`ω´ )oなんて駄々捏ねたりしたことが何度もあった。とはいうもののフィッシャーはレシェフスキーのことをなんやかんや尊敬してたらしくフィッシャー曰く最も偉大なプレイヤーは「モーフィ、シュタイニッツ、タラッシュ、カパブランカ、アリョーヒン、スパスキー、タル、レシェフスキー」らしい他にも「レシェフスキーがその弱点であるオープニングを直したら世界チャンピオンになれたかどうかは誰にもわからないだろう」と言っている。

1967年フィッシャーはインターゾナルに復帰したけどレシェフスキー戦に50分以上遅刻したためレシェフスキーは激怒、フィッシャーの参加を取り消せとね、結局フィッシャーが勝ったんだけど3回フィッシャーがゲームを棄権したからフィッシャーが削除された。(レシェフスキーはキャンディデイトになるんだけどね) 

1970年にフィッシャーはレーティング一位だったんだけど(フィッシャー>スパスキー>コルチノイ)ソビエト連邦vsその他全世界戦でデンマーク出身、当時フィッシャーとソ連を除いて世界で一番強いと言われた(世界6位くらい)ラーゼンに一番ボードを譲った(ソ連の一番はスパスキー)。この試合でラーゼンはスパスキーに対してあまりにも独創的なオープニング(1b3(ラーゼンオープニング))を使ったのでスパスキーがそれに漬け込みルークを2個捨てる離れ業で勝利、スパスキーにとっての輝かしい勝利となる。(ラーゼンのオープニングは独創的すぎてたまに失敗するけどその哲学は今のチャンピオンカールセンに受け継がれてる)一方フィッシャーは二番ボードのペトロシアンと対戦。ペトロシアンを難なく粉砕する。レシェフスキーは六番でスミスロフと勝負。互角の勝負を繰り広げた(レシェフスキーとスミスロフは好敵手のようなもので1945年のアメリカ対ソビエト連邦戦ではレシェフスキーとスミスロフ二番ボード同士対決、この時はレシェフスキーは完全敗北。チューリッヒ1953年でもレシェフスキーがスミスロフの二番だった。1991年、80歳のレシェフスキーが70歳のスミスロフがロシアの中央チェスクラブで勝負する。結果は2 2のドローなしの引き分けでレシェフスキーが冗談でもっとチェスをしたいなぁといい、続けて二人でチェスの博物館を回った後「この日初めて私の人生は無駄では無かったと悟ったよ」と言い残しふたりは別れを告げる、10ヶ月後レシェフスキーはこの世を去ってしまう...

アメリカの大統領の命令でやっとフィッシャーが本気でチェスをやりだす。1971年のキャンディデイトマッチに一位で通過、初戦はチューリッヒ1953の参加者で熟年のピアニストタイマノフ、フィッシャーがなんと6戦中6戦勝利!!これがきっかけでタイマノフはソビエト政府から悲惨な扱いを受けた。2戦目はレート4位のラーゼン(フィッシャー>スパスキー>コルチノイ>ラーゼン>ペトロシアン)、これも6戦中6回勝利!!決勝戦の相手は因縁のペトロシアン9回勝負で2戦目になんと敗北。三回戦から5回戦まで引き分けで以外と手こずったけどそっから全部はストレート勝ち。

世界チャンピオン戦には普通のチェスプレイヤーはたくさんの本を持って行くのにも関わらずスパスキーの過去の試合のことを書いてあるノートを一冊持って行っただけだった。対戦場所はアイルランドアイルランドで英語を話せるチェスプレイヤーの家に行った時アイルランド語でその娘に話しかけられたフィッシャー、一旦ホテルに帰って次の日にまた訪問した時その言われたアイルランド語を覚えていたらしい(フィッシャーには瞬間記憶能力がある)。

スパスキーとの一回戦フィッシャーはドローっぽいポジションでビショップを落としてしまって敗北、このミスは多くのチェスファンに最低のミスと言われてるけど実はそうじゃなくて深く考えるとビショップを救出する手もある手だったんだけど、その手がもっと深く考えるとあの状況で成り立たなかっただけの話でそう単純なミスではなかったみたい(実際カールセンvsアナンドのチャンピオン戦ではカールセンがその救出する手を成功しててポーン得になった(その試合は結局引き分けで終わった)一説には周りに見られて深く考えれなかったからだと言われる。二回戦目はフィッシャー棄権によるため敗北。メディアがいなくならない限りやらないといいながら。三回戦目はスパスキーがフィッシャーの提案を飲み別室で試合をすることに。三回戦はフィッシャーがスパスキーにキャリア初の勝利、6戦目はフィッシャーが今まで一回しか刺したことがないオープニング(イングリッシュオープニング)を披露し華麗に勝利、戦いの後にスパスキーが立ち上がって拍手したことで有名。その後スパスキーは一戦しか勝てず結果12 1/2vs 8 1/2でフィッシャーの勝利。

ソ連政府はフィッシャーの想定外の勝利にパニックに、

フィッシャーのスタイルは個人的には異質だったと思う。というのはソ連のプレイヤー(ボトヴィニク率いるロシアンスクール)はなるべく勝っているなら駒を交換せずにそのままチェックメイトに持っていく引き伸ばしの手法をよく使ったけど(複雑だけど早い)フィッシャーは逆に勝ってる状況で交換してより明らかなアドバンテージを求めた。(簡単だけどすぐにはチェックメイトまでいかない方法)ボトヴィニクが足し算のチェス(2対1で勝ってるなら14対6までの差を広げるとしたらフィッシャーは10対6で勝ってる状況を5対1までにするようなチェス)似たようなことでアドバンテージの転換が得意であるアドバンテージを持ってたらそのアドバンテージを平気で捨てるがその過程で別の強いアドバンテージを得ることが得意だった(あまりアドバンテージを進んで捨てれるプレイヤーなんてなかなかいないと思うけどそれを捨てれるのがフィッシャーの強みだった)

場の量子論 矛盾

相対性理論の有名な式E=mc^2の式は質量に対して十分なエネルギーがあれば粒子を生成できることが可能であるということ。しかしシュレディンガー方程式は粒子数を変更したり新しい粒子を追加することができない。

素粒子物理学は3つの相互作用を説明してる。すべての力はスピン1の粒子ゲージボソンによって電磁気力、弱い力、強い力が説明される。重力はスピン2の粒子のグラビトンによって伝えられる。(そういえば知らないですけど一般相対性理論にもスピノルが出てきますよね。これから勉強しますが)

電磁気力

電磁場を表す対称性の群はU(1)で単一の生成子が存在するので単一の粒子によって媒介されることがわかります。電磁気力は光子の交換に起因します。スピンは1で2つの偏極をもつんですがそれは一般的に質量を持たなくスピン1なら2つしか偏極を持たない。

みたいな。で、電磁場の届く範囲が無限なことは相対論と量子論を使って説明できます。アインシュタインの⊿E=mc^2、ハイゼンベルグの不確定性定理⊿t=h/⊿E=h/mc^2なので時間⊿tの間に運動する範囲を見積もれて⊿x=h/mcでm→0と光子はなるので⊿x→∞となります。このように力が及ぶ範囲はこう求められます(弱い力はそのゲージボソンの質量がそこそこ大きいのでかなり制約されます。でもこの議論は質量を持たない強い力のゲージボソングルーオンには適応できません。なぜなら強い力はより複雑で閉じ込めと呼ばれる概念を含んでます。強い力のチャージは色荷を持つからです。色荷は色を持つ粒子間だけの特別な性質を持ち、近づけば強い力は自由粒子のように振る舞い、遠ざかれば引き戻そうと力が働きます(まるでゴム紐ですね)閉じ込めの結果グルーオンクォーク間の相互作用を媒介することに関与してます。弱い力のゲージボソンと強い力のグルーオンの生成子は特殊ユニタリ群の次元と一致してます。ラグランジアンが変換で(局所)不変の時に対称性が存在しますがゲージボソンがユニタリ行列の対称性に関係してます。

他にも離散対称性が量子力学では重要で、パリティ、荷電共役、時間反転があります。シュレディンガー方程式は原点対称、x→-xの変換で同じ固有値を取りますので、線形従属よりφ(x)=aφ(-x)となりますがまた同じ変換をするとa^2=1なのでa=1 or -1となります。これをパリティといいます(パリティ演算子はPφ(x)=φ(-x)と定義されます。ハミルトニアンパリティと可換なのでパリティは保存されハミルトニアンが状態の時間発展を決めるためパリティパリティαを持つ状態はパリティ−αを持つ状態には時間発展できません。φ(x)=φ(-x)の時偶数パリティ、φ(-x)=-φ(x)の時奇数パリティと呼びます。この状態は時間発展で絶対に変わりません。フェルミオンパリティは決まっててスピン1/2なら正のパリティなので電子とクォークは共に+1のぱ、スピン1/2の反粒子ら負のパリティ、例えば陽電子がそうです。スピンが0かつ正のパリティスカラーといいスカラーの例はヒッグスボソンです。ベクトルボソンはスピン1で負のパリティを持つ粒子のことで光子が重要な例です。重要なことですがパリティは電磁相互作用と強い力で保存して弱い力では保存しません。これがいわゆるパリティ対称性の破れですね。他の離散対称性には荷電共役があります。粒子を反粒子に変換する演算子Cを定義します。これも固有値が±1です。これも弱い力では保存しません。

さて、荷電共役とパリティが個別に弱い相互作用によって破れています。なのでマイナス×マイナスの理論で逆に弱い相互作用では同時に変換したCP対称性が保存することが期待されますが(ランダウの主張)クローニンとフィッチの実験によりK中間子において僅かに対称性が敗れることがわかりました。これをCP対称性の破れといい小林益川理論によって宇宙において反物質がほとんどないことを説明できるきっかけとなる理論になりました。中性K中間子|K>はその反粒子と線形結合状態の中で観測されるという性質を持っているので自然に反粒子に遷移したり、その逆の変化が起きたりします。両方共負のパリティを持つのでP|K>=-|K>、P|K※>=-|K※>でC|K>=|K※>、C|K※>=|K>なのでCPはCP|K>=-|K※>なので|K>はCPの固有状態で無いことがわかります。これを破れてることを確認するために新たな固有状態を作ります。|K1> =|K>-|K※>/√2、|K2>=|K>+|K※>/√2と定義してみるとCP|K1>=|K1>、CP|K2>=-|K2>となります。(このK1とK2っていう状態は実験室で作れるみたいです。)で、K中間子は2つのπ中間子か3つのπ中間子に崩壊することができて2つのπ中間子ならCP=1、3つのπ中間子ならCP=-1となります。もしCP対称性が存在するならばK1は2つのπ中間子、K2は3つのπ中間子のみになるはずですがK2は実は2つのπ中間子に崩壊します!このためCP=-1→CP=1の遷移が起こります。

じゃあここまで対称性が破れていたら完全な離散対称性なんてないんじゃないの?と思われるかもしれませんがそうではありません。実はCPT対称性は破れてないのです。Tとは時間反転のことでこの事実はCPT定理と呼ばれています。運動量と角運動量を負にする変換で反ユニタリかつ反線形です。

超対称性の理論を使えば真空の無限大を除ける。正規積、くりこみ

G.A.マルグリス。ロシア人フィールズ賞受賞予定者だった人

ソビエトは優秀な人材をたくさん排出してきたエリート国家のイメージがあります。物理学、数学、そしてチェス(チェスに至ってはチャンピオンのほとんどがソビエト連邦の人で今年の挑戦者もロシア人だったので影響力は消えてないはずです。)しかし、ソビエトの学問って閉鎖されてる分独自の進化を遂げてるイメージがありますね、積分方程式の研究がめちゃくちゃ強かったってどっかで読んだ気がします。

で、マルグリスはSelberg予想解決を解決しました。Selberge予想というのは半単純なリー群(非可換)な群に求める話です。例えばSLn(R)にはモジュラー群SLn(Z)が不連続群です。R^2だと二つまでの基底を選んだZ係数ベクトル空間。みたいなものになります。モチベーションとしては不連続群があると保形形式ができます。保形形式は空間に群で割ったリーマン面上定義されたものです。で、ご存知ポアンカレ平面の一般化をしたのがCartanです(父親の方っぽいですね)(G-構造の記事でも出てきました。)彼は対称空間と呼ばれるものに運動群Gを考えました。Gはコンパクトな因子を持たず中心は単位元だけです。そこで半単群Gの不連続部分群ΓがXにコンパクト体積有限な領域を持つものを決定するのが重要な問題になるわけです。で、体積有限な基本領域をもつものを格子、コンパクトなとき一様な格子とよぶわけです。Xが対称空間の時の保形形式を始めて研究したのがSiegelで二次形式との関係性でSiegelモジュラー関数の研究を始めました(実は一様じゃない格子でした。Siegelは一様な格子を見つけるのは困難(できると思うけど複雑すぎる)だと思っていて、彼自身は幾何学的方法を望んでたみたいです。そこからこの問題は20年間(1950年までですね)あんまり手をつけられてませんでした(Siegelモジュラー関数の研究はそれなりに盛んだったみたいです)1950年はBorel Weil Chevalleyによって代数群の研究が活発になって不連続群の認識も深まります。それで実は不連続群はそんなにたくさんないのでは?と思われるようになりました。1960年にSelbergは三次元以上のSLn(R)の一様な格子の行列成分は全て代数的整数のような群に共役だということを証明しました。この頃から高次元の格子はモジュラー群のように全て整数論的に定義されるものしか存在しないと思われるようになりました。

チェス世界チャンピオンの紹介

僕の知ってる限りに世界チャンピオンを紹介すると、多分現代的な歴史で一番重要なのが1700年代くらいフィロドールっていうフランスのチャンピオンでこの人がエンドゲームに関する基本的かつ重要な理論的なポジションを三つくらい研究してた(ちょっと前アメリカレートNO1のFabiano Caruanaがルーク&ビショップvsルークのフィロドールポジションで勝てなくて話題になってた。この人実は音楽家、目隠しで三面戦って全部勝つくらい強かったらしい。この人の教科書は何世紀も読まれてたらしい。

そっからロマンティック時代に突入して、その頃のチェスはe4だけでe4 e5 f4のキングスギャンビットが流行って(100年後にはspassky以外刺さなくなっていく、でもspasskyがsecret weaponとしてフィッシャーに勝ったり(フィッシャーが数年後かけて反駁したのは有名な話)Bronsteinに勝ったり(あまりにも綺麗すぎて映画にも出てきた)あとはShirovが訳のわからないサクリファイスGMを倒してたら必ずしも強いわけではないけど一部相手を驚かせるために使われてる)まあd4とかさすやつは未開人扱いされてた。ロマンティック時代の特徴は中盤で攻めが駒を全部捨ててキングを積まそうとして、もし運が良く積まなかったら防御側の勝ちみたいなそんな感じだった。そのロマンティック時代で一番強かったのがアメリカの弁護士のモーフィ(1850年くらい)で、モーフィの特徴としては全ての駒が攻撃に参加してるという点、そこが他のプレイヤーと違った。おそらく初めてチェスにダイナミックな意味でのポジションプレーの概念を持ち出した人、この人のオペラ座のゲームはチェスの歴史上一番有名。この人ヨーロッパのマスターをコテンパンにしてチャンピオンになったんだけどチェスに飽きてアメリカで女性の靴に囲まれながら風呂場で死亡、チェスやってる人の頭のおかしさで引き合いに出される代表例。モーフィが死んでからヨーロッパの強豪が争ったんだけどその中で一番強かったのがドイツのシュタイニッツ。シュタイニッツ(1870~80くらい)はモーフィのライバルでスタイルもにて華麗な攻撃を仕掛けるんだけど中年以降はチェスの本質は攻撃だけではないことに気がついて(静的な意味での)ポジションプレーの概念を生み出す、例えばどういうビショップの強さの判定とか全体的なポジションを見通して抽象的かつ一般的な判断を下すみたいなね。あとはシュタイニッツルールって名前のポジションを判断するテストを作った。あまりにも一般的すぎて今では参考程度にって感じ。

シュタイニッツはやっぱ数学者で一般性にとらわれすぎてしまってやっぱり病んでしまった、晩年は神と先手でドローしたとか主張したり自分のポジショナルプレーの概念が理解されなかったりして徐々に病んでいった。この人が初代公式チャンピオンになった。

シュタイニッツはヒルベルトの弟子でネーターの同僚のラスカー(1900年くらい)に倒される。ラスカーはアインシュタインにこいつがチェスで遊んでたから物理学の発展が10年遅れたと言われるくらいの天才で歴代チャンピオンの中でも眼を見張るほどの防御力を持つ、心理戦を得意としててちょっと不利な状況でも粘り強いディフェンスで有利に持ち込む、そしてSilman(アメリカの有名なチェスの教育者、IM)が歴代最高の5人のエンドゲームプレイヤーの一人に選んでる。この人が歴代で一番長い年数チャンピオンの座にいた(これには色々理由がある)。ラスカーは世界初の五人のグランドマスター(チェス最高の称号)の一人、タラッシュと世界チャンピオンの座をかけて勝負したりした。タラッシュは本業医者でシュタイニッツの理論の欠点を修正d4の理論わ作り出す。それまでe4以外未開人扱いだったけどそれからはd4以外チェスエアプ扱い。なんやかんやでラスカーが勝利

でもラスカーが勝負しなかった(できなかった)相手にアキバ・ルビンシュタインがいる。個人的な意見だけどこの人はラスカーより強い、この人の特徴は卓越した戦術家であること、立てたプランを一縷の糸のように一貫して遂行していく、そして何よりもエンドゲーム、Silmanが選ぶ最高のエンドゲームプレイヤーの一人に選ばれたり、ルークエンドゲームではコルチノイと並ぶ強豪とされている。大域的な戦術では今のプレイヤーにも常にアイデアを与え続けていて(例えばフォロワーに2008年から2013年までの世界チャンピオンのアナンドが2012年にアロニアンにTata steelで披露した(多くのマスターがこんなに素晴らしいチェスは見たことないと言った)ゲームもアイデアはルビンシュタインのものと言ってるし2012年の世界チャンピオン挑戦者のゲルファンドはルビンシュタインの大ファン))みたいなすごい人なんだけどあまりにも素晴らしいチェスをプレイするのに拘って病気になってチェスは続けられず、ラスカー戦もスポンサーが来ずに最後まで王者と戦えなかったとさ

ラスカーと勝負するものにキューバの外交官カパブランカが現れる。カパブランカ(1920から1930頭まで)は歴代最高の生来の才能を持つと言われててチェス勉強しない自慢と傲慢さを持ち合わせたプレイヤー、でも強さは本物で世界で初めてGMになった五人のうちの一人であり同じく最初の一人であるマーシャルを完膚なきまでに打ちのめすという伝説を持つ、ラスカーにチャンピオン戦で無敗、八年間無敗、という負けることを知らないチャンピオン。もっとすごいのがマーシャルがコテンパンにされたその悔しさで八年間、対カパブランカ用に取っておいた危険なマーシャルアタックっていう攻撃を(今では完全に理論化されててポーンを黒が捨てて黒が引き分けにするって言われたる。例えばアロニアンとかがたまに使う)生み出してカパブランカを攻撃をするんだけど見事にギリギリでかわして逆にカパブランカが勝つという離れ業を披露。特徴は過度な単純化、究極のエンドゲーム力の持ち主でピースが殆どなければカパブランカに今のトップでもほとんど勝てないだろうって思われるほど卓越したエンドゲーム力を持つ当然Silmanが選ぶ五人に入ってる。ポジションプレーもすごくてアメリカのIMCyrus曰くカパブランカは当時のマスターと比べて遥かに深いポジションの理解をしていた、それこそ差はレート1500とカルポフ、カスパロフ、クラムニクの差のようにと、フィッシャーはカパブランカはオープニングだけなら今の小学生でも優位を取れる程度には適当にしかやらないけどミドルゲームだとかなりキツイと。コンピューターはフィッシャーまでの世界チャンピオンと比べて誰が一番正確か?と聞いたところタルを除くとカパブランカが一番正確だと返ってくる。

まあでもカパブランカの一番の弱点は勉強しなかったこと、世界初の五人のGMのうちの一人アリョーヒン(ロシア→フランス)と勝負することになる。このマッチは一番好きな世界チャンピオン戦はなんですか?とかチェスファンに聞くと大体カパブランカvsアリョーヒン、ボトヴィニクvsタル、カルポフvsカスパロフと返ってくる程度には重要(なんたって古典チェスの頂点だからね)アリョーヒンの特徴は異常な勉強量、一日14時間死ぬまでやってたという、タクティクス、戦術、エンドゲーム、どれを取っても今でも通用しそうな素晴らしいものを持ってるけど一番はそのダイナミクス、圧倒的重攻撃で相手を倒す、アリョーヒンの銃とも呼ばれる形を愛用する。アリョーヒンが勉強してる間カパブランカはバーで夜更かししたりしてた、覆せない最強の自信があったから、でも決戦したらアリョーヒンの勝利。でもアリョーヒンは最強のカパブランカを恐れた、だからアリョーヒンはカパブランカとは世界チャンピオン戦に出入り禁止させた。そしてアリョーヒンはチャンピオンの座を独り占めするために自分に勝てそうな選手としか絶対に世界チャンピオンとしては刺さなかった。でも事件が起きる、オランダの数学者エイベと適当に戦って世界チャンピオン戦敗退、世界チャンピオンの座を一年譲ることになる。エイベは数学者だけどできない仕事はないという多芸ぶり(調べたらわかるけどボクシングと水泳やりながら数学者やったらキャパシティが違いすぎる)レオナルドダヴィンチ系の天才。チェスの本をたくさん残して1972年の世界チャンピオン戦の時の会長をやったりする、チェスをゲーム理論の視点から調べようとしたりしたらしい。

アリョーヒンは悔しさをバネに禁酒一年、リターンマッチで見事エイベを粉砕する。カパブランカはアリョーヒンに負けてもその強さは健在で1938年までにたくさんのトーナメントで優勝した(例えばモスクワ1936年はカパブランカがラスカーやボトヴィニク(二位)を押しのけ優勝)ノッティンガムでは一位ボトヴィニク、2位カパブランカ(3位エイベ、続いてファイン、レシェフスキー、アリョーヒンなど)でも1938年には歴史に残る大イベント最強の八人が集うAVROでは7位に(ケレス、ファインが優勝、次にボトヴィニク、エイベ、レシェフスキー、アリョーヒン、カパブランカ、フローア)理由は脳出血の後遺症だとかなんとか言われてる、カパブランカは間も無く死んでアリョーヒンは卓越した才能がなくなったとその死を悼んだ。

話は10年戻り1925年、チェスでタラッシュを越えるために新しいハイパーモダン運動が起こっていた、タラッシュはd4が最強だと言ってたけどg3で強力なセンターをわざと捨てて黒がそれを攻撃するチェスの素晴らしさをニムゾヴィッチ(当時のアリョーヒン、カパブランカに次ぐ三位)とレティ(カパブランカの八年間の無敗記録を破った)が伝道して、ニムゾヴィッチ(ロシアの哲学者)が抽象的なマイシステムという本を作った、この本は今でもチェスプレイヤーのバイブルとして愛用されている。これでオープニングに革命が起こった。

アリョーヒンは世界大戦後に死亡、唯一世界チャンピオンのタイトルを持ったまま死んだプレイヤーとなった、チャンピオンに権力が乱用されないようFIDEという団体ができるようになる、新しいチャンピオンはAVROの参加者で決められフローアは第二次世界大戦の中で現れた若手の強豪スミスロフが取って代わった、対戦ルールはAVROと同じ、結果はボトヴィニク一位(ソ連)、スミスロフ二位(ソ連)、ケレス三位(ソ連)、レシェフスキー4位(アメリカ)、エイベ5位(オランダ)という結果に、ボトヴィニクが新チャンピオンにここから12年間ボトヴィニクの時代が始まる

 

ボトヴィニクの時代

ボトヴィニクはこれからこれまでロシアを支配するロシアンスクールの設立者、チャンピオンにしては遅い12歳でチェスを始める、歴代最高の戦略家と言われてオープニングの準備も他のプレイヤー比較ならないほど徹底してて辞書と言われた、チェスコンピューターの理論にも貢献してソビエト人工知能にも協力した。おそらく最後のなんでもマン(ここから先のプレイヤーはチェスだけの人間になっていく)科学者故にそのチェスは極めてドグマ的、シュタイニッツと似てる。それに挑戦するのはブロンシュタイン(ソ連)、ブロンシュタインは独創的な攻撃をしかける創造タイプ、次の世代のアタッカーに影響を与えていったが引き分け防衛。ボトヴィニクの方がエンドゲームの知識が上で引き分けになるような試合もボトヴィニクが勝利に持ち込んだり逆にブロンシュタインが勝つ試合を引き分けに持ち込んだ。ただブロンシュタイン自身はボトヴィニクと戦えた事自体に感激をして別に結果はどうでもよかった。若いスミスロフ、スミスロフはブランシュタインが書いた有名な本にもなる、伝説的なトーナメントチューリッヒ1953で優勝して(スミスロフ>ブロンシュタイン>レシェフスキー>ケレス>ぺトロシアン>その下10人くらい)挑戦者となる、スミスロフはオペラ歌手で調和した棋風を持つ、程よくバランスが取れていてピースが一番いいところに常に置いてある、第二のカパブランカと呼ばれてエンドゲームに特に優れてSilmanの選ぶ5人の最高のエンドゲームプレイヤーの一人。1回目の挑戦ではなんと引き分けに持ち込むけどルールにより引き分けならチャンピオンの座は変わらないことになりボトヴィニクの勝利。

続く1956年の挑戦者戦にスミスロフは勝って(スミスロフ>ケレス>サボー(ハンガリー)>スパスキー(ソ連)>ペトロシアン>ブロンシュタイン)もう一度ボトヴィニクに挑戦した。すると今回はボトヴィニクに勝利した!でもこっからがボトヴィニクの真の恐ろしさが始まる。ボトヴィニクの強さはボードの上での勝利でなくボードの外から相手の特徴を観察して入念すぎる準備をすること、リターンマッチでは簡単にスミスロフに勝利スミスロフの王座はたったの一年たらずで終わる...1958年、事件が起こる、最強棋士達が集う1958 USSR王者決定戦で新人タルが優勝してしまう...この時スパスキーと繰り広げられた激戦は有名(タル>ペトロシアン>ブロンシュタイン>アヴェルバッハ>スパスキー>後12人くらい)タルは急に現れた新人でチューリッヒ1953に参加したアヴェルバッハを倒したことによりソビエト政府から特例でGMの称号を与えられたイレギュラー。ブロンシュタイン(魔法使い)のフォロワーで準備もしてないで無茶なサクリファイスを無理やりすることに定評があることから魔術師とよばれる、防御が十分に強かったら防げない攻撃ではないけど実践であるからミスはするしタルの計算力のの高さ故並みの防御力では無茶なサクリファイスをされたはずが逆にタルが駒得をいつの間にかして簡単なエンドゲームで負けるという、心理的なプレイヤーでいつ来るかわからない危険な攻撃で恐れられていた。たまに間違ってるから怖い。たま間違ってるからスミスロフには虚偽と批判されたことがあったけど、このタルがチェスに新しい生命を与えていく、代表選手権では(タル>ケレス>ペトロシアン>スミスロフ>フィッシャー(アメリカ)で余裕の勝利)ボトヴィニクにも激戦の末勝利(1960)最年少世界チャンピオンとなる

無双を極めたタルにも弱点があった、タルは生まれつき指が三本しかなく病弱だった。それ故強さにムラがあった、しかと50歳のボトヴィニクは誰も気がつかない致命的なタルの攻撃の弱点を見つけた。ボトヴィニク運営はタルの健康のことも考えず満身創痍のタルと戦い勝利、歴代最短のチャンピオンだった。

次のボトヴィニクの挑戦者はペトロシアン、あまりいいところの出ではないけどニムゾヴィッチの本とサクリファイスの本を読み続け矛盾した二つの思想が調和されたプレイヤー、特徴としては基本的に絶対に攻撃しない、何があっても攻撃せず相手の弱点を...ただ囲う...それだけ...ニムゾヴィッチ曰く脅威は実行より強い、それで相手が弱ったらサクリファイスで一網打尽、半端ない忍耐力で相手が何もできなくなるまで待つ大蛇の異名を持つプレイヤー、ボトヴィニクは戦略の理解の差を感じチェスを引退、

ペトロシアンは地味に最年少GMだったんだけどスパスキーがその最年少記録を塗り替え世界チャンピオンの座を狙う、スパスキーは攻めもできて守りもできる、クラムニク曰く初めての本物の普遍的なプレイヤー、だけどスパスキーは止まらない殺戮兵器の側面があってなかなか始まらないけど時間が来れば一気に相手の王を狙って塞がない巨大な調和された攻撃で相手を倒すプレイヤー、タルは早すぎる攻撃、ペトロシアンは遅すぎる攻撃、スパスキーはその遅い早いを正確に見切れる能力がある。スパスキーはジュニアの世界チャンピオンになり若い頃から将来を約束されていたし1956年の世界チャンピオン挑戦者マッチにも参加したがそこから先は奮わず1966年までキャンディデイトになれなかった。キャンディデイト戦ではその得意な普遍的な戦法で一流の相手にそれぞれの弱点に合わせて戦った。最終戦は復帰したタル、その頃タルはレート一位、二つの無敗記録の持ち主、当時のペトロシアンの連続無敗記録を二回も破り(今でも一番の記録を持ってる。二番目は確かクラムニク)驚くほど強かった。でもスパスキーは1958年の雪辱を果たし見事挑戦者になる。スパスキーは1966年にペトロシアンに挑戦するが敗北、その後山にこもり三年間特訓することに、ボトヴィニクはスパスキーに「ペトロシアンの手はどのくらい読める?」と聞かれた時に「常には読めない」と答えた。1969年も運良くコルチノイを倒しペトロシアンに挑戦者する。スミスロフは結果について「自分がボトヴィニクに一度負けた後に勝ったようにスパスキーはペトロシアンに勝つかもしれない。ロシアの諺:復習は理解の母」激戦の末スパスキー勝利、スパスキーは勝った後に言った「ペトロシアンの手は全て見えた」でもこの頃決してスパスキーは最強であったわけではない、「恐らく地上で一番強いのは私がフィッシャーだろう」